1994年、タイキシャトルはアメリカのタイキファームで生まれた。父はターントゥ系のデヴィルズバッグで、GIのシャンペンステークス(8ハロン)を含む9戦8勝の名馬である。種牡馬としてもそれなりに成功しているが、競走時代の名声から言うと「期待通り」とは言い難い部分がある。母ウェルシュマフィンはアイルランド、アメリカで走り、100ギニートライアル(準重賞)ほか5勝(15戦)した競走馬であった。母の初仔・タイキフォレストは6戦3勝で、ダート志向の強い馬であった。タイキシャトルはウェルシュマフィンの2番仔に当たる。
藤沢和雄厩舎にはいるタイキの馬は、総じて「デビューが遅い」という傾向にあるが、タイキシャトルも同様であった。ただしこの馬の場合、意図的に遅らせたわけではなく、やむを得ない事情があった。脚を負傷したため入厩の時期が年明けの2月にズレ込んだばかりか、入った後も脚元のモヤモヤに悩まされていたのである。特に厄介だったのはソエで、稽古で走らせるたびに悪化するので、かなり仕上げに手間取ったのだ。また、当時はゲートの出が悪く、3度目にしてようやくゲート試験に合格したという逸話も残っている。ようやくデビューできたのは、4歳(現表記で3歳)の4月。当然クラシックは間に合わない。
デビュー戦はダートの1600メートルであった。姉のタイキフォレストがダート馬だったからという理由ではない。ソエで脚元が固まっていないため、負担の少ないダートが選ばれたのである。
タイキシャトルはデビュー戦に圧勝し、次走の500万下平場(ダート)も難なくクリアした。とはいえ、クラシック真っ盛りのシーズンにおいて、「裏路線」のダート戦はどうしても印象が薄い。
とはいえ、使ってゆくうちに徐々に脚元も固まってゆき、3戦目にして待望の芝路線へ転換することになった。
芝に変わっても、タイキシャトルの勢いは止まらなかった。6月の菖蒲ステークスで、のちに重賞勝ち馬となるシンコウスプレンダを斬って捨てたのである。続く菩提樹ステークスでこそテンザンストームの逃げ切りを許したものの、「負けてなお強し」の内容であった。
「あのレースはノーマークの馬に単騎で行かれ、捉え切れなかっただけの話。“強い馬“が負けるときの典型的なパターンといえるでしょう」
と藤沢和雄が言うように、決して深刻なものではなかった。事実、これ以降怒涛の連勝街道を突っ走ることになる。
1997年7月6日「菩提樹ステークス」(阪神芝1400) テンザンストームの逃げ切りを許し、初めて経験する敗北。しかし、この直後から連勝が始まる。
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