オークスのあと、角居勝彦はシーザリオのアメリカンオークス挑戦を表明した。実は、桜花賞2着の時点で、向こうのエージェントを通じてこの話が来ていたのである。その時点で、「アメリカへ行く」という気持ちはほぼ固まっていたのだ。
海外遠征は、角居にとって何もかもが初体験であった。かつて、技術調教師として修行させてもらった藤沢和雄に海外に関する情報をレクチャーしてもらい、一応の知識を詰め込んではいた。しかし、実際に現地にゆくと、日本との違いに驚き、ああすれば良かった、こうすれば良かったといった反省の連続なのである。検疫所の狭さに驚き、帯同馬を連れてゆかなかった失策に落ち込み、現地で買えるものを大量に持参したことに苦笑した。まさにドタバタの初海外だったのである(注 ディアデラノビアも遠征する予定だったが、骨折のため断念)。
アメリカンオークスは施行4回目の新しいGIのため比較的メンバーが薄い上、前年にダンスインザムードが2着したことから、シーザリオにかかる期待は大きかった。ただ、角居自身はドタバタの中にあり、「完璧にやれた」というには程遠い状態だった。
海外遠征した日本馬が準備不足で負けるのはありがちなことである。オークスのときのような「力を出せれば勝てる」という自信は持てなかったのだ。
ところが、そんな角居の心境とは正反対に、シーザリオは堂々のレースで強さを見せ付けた。馬なりのまま3コーナーで先頭に立つと、直線でさらに後続を突き放すという大楽勝劇を演じたのである。2着メリョールアインダ以下との着差は4馬身。しかも、1分59秒03の勝ち時計はレースレコード。まったくの完勝であった。
このとき、角居は「完成の域に近づきつつある」と感じたらしい。それだけに、秋にはブリーダーズカップ挑戦(フィリー&メアターフ)まで考えたほどである。
2005年7月3日「アメリカンオークス(GI)」(ハリウッドパーク芝2000)
文句なしのブッチ切り。この勝利は、父内国産馬が初めて海外のGIを制した快挙となった。
ところが、レース中に繋靭帯炎を発症し、休養に入ることを余儀なくされたのである。さらには、復帰に向けての調教中に、再び同じ症状が出てしまう。爆弾を抱えていた脚がとうとう悲鳴を上げたのだ。これにより、シーザリオの関係者は引退を決意したのである。
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